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「観光地が“自分の街じゃなくなる”感覚」
京都でホテルに泊まる。それだけで一泊5万円を超えることも、今では珍しくなくなった。気づけば、ラグジュアリーホテルが日本にも普通に増えた。アマン、シックスセンス、ジャヌ東京、ウォルドーフ・アストリア大阪、GREENITY IWATA。数年前まで「日本にラグジュアリーはない」といわれていたのが嘘みたいだ。
でも、誰がそこに泊まっているのか。日本人じゃない。海外でも同じことが起きている。タイのリゾートに、タイ人は泊まっていない。プーケットのビーチリゾート、バンコクの高層ホテル──全部、外から来た人たちが泊まっている。
今の京都、ニセコ、大阪の一部は、それに似てきている。観光地が“誰の街”か分からなくなっていく感覚。エースホテルも、シックスセンスも、そこに住む人の暮らしとは、もう地続きじゃない。
そこで起きているのが、オーバーツーリズム。世界を見てみると、ベネチアでは日帰り観光客に入場料をとる。バルセロナではクルーズ客への課税や、短期民泊の禁止。1日に入れる数が決まっているビーチや島があるなど、観光のかたち自体が変わってきている。
一方で、日本の動きは慎重だ。富士山は登山者数を制限し、入山料を導入した。京都や各地で宿泊税が始まり、観光税も広がりつつある。でもそれは、“調整”であって“再設計”ではない。
混んでいる=人気、という価値観はもう終わった。行列も渋滞も、地元の人からすれば「日常が奪われていく音」であり、観光地が人を呼び過ぎてしまったのだ。オーバーツーリズムに対して、日本が選んでいるのは、“いままで通り”を壊さないまま、少しずつ値上げするという方法だ。入場制限や二重価格など、「入り口を絞る」選択肢は出てきているが、どこかで“遠慮”が残っている。
それが、日本らしさでもあるし、もしかしたら、変えられない限界でもあるのかもしれない。観光は国の一大産業だが、インバウンドの目標数を決めて、数を争う観光からは脱却したほうがよい。「誰のための観光か?」という問いが、今いちばん必要なのではないだろうか。
